連載小説 神霊術少女チェルニ〈連載版〉 2-33
クローゼ子爵家の図書室で、自由に動けるようになったオルトさん達は、すぐに逃げるための準備を始めた。オルトさんと息子のアレンさん、それからオルトさんの弟のナリスさんは、貴重品を取りに走った。残されたミランさんは、転移魔術の準備をするらしい。
額に神霊さんの文字で、大きく〈嗜虐〉って書かれているミランさんは、いつも冷たい目をして、薄笑いを浮かべていたんだけど、今は真剣な顔をして、ぶつぶつと何かをつぶやいている。
わたしは、ミランさんを横目で見ながら、ヴェル様に質問した。ミランさんたちが、転移魔術って口にしたときから、不思議に思ったことがあったから。
「はい! はい!」
「何ですか、チェルニちゃん?」
「質問させてもらってもいいですか、ヴェル様?」
「いいですとも。わたくしに分かることなら、何でもお答えしますよ」
「ミランさんたちって、魔術を使えるんですか? ルーラ王国の人は、神霊術しか使えないんだと思ってました。うちの国で、魔術を使う人たちって、他の国から来た人だけなんですよね?」
そう尋ねると、ヴェル様は、むずかしい顔をして眉をひそめた。答えたくないっていうより、ヴェル様も迷っている感じだった。
「それは、とてもむずかしい質問ですね。我らがルーラ王国の国民は、生まれながらに御神霊の恩寵に浴し、何らかの神霊術を使えるようになるといわれています。けれども、我らの身の内には魔力が宿っており、それは他国の者たちが魔術を使うための力と、明確な区別はないのです」
ゆっくりと言葉を探すようにして、ヴェル様は話してくれた。わたしの腕の中にいる、スイシャク様とアマツ様に視線を向けているのは、〈間違っていたら、教えてください〉っていう意味なんだろう、多分。
スイシャク様は、ふすっふすって、かすかに鼻息をもらし、アマツ様は、ほんの少しだけ朱色の鱗粉を煌めかせた。はっきりとしたメッセージじゃないけど、これは〈そうだね〉っていう返事なんだと思う。
ヴェル様も、そう判断したみたいで、ゆっくりとスイシャク様とアマツ様に頭を下げてから、話を続けた。
「ということは、論理的にいって、ルーラ王国の国民であっても、魔術を使える可能性はあるのだと思います。実際、ルーラ王国から他国に移住した人々は、子や孫の世代には神霊術が使えず、逆に魔術が使えるようになるという噂もあります。ルーラ王国からの移住者は、ほとんど存在しないので、はっきりとは確認されていませんけれど」
うん。ヴェル様の言葉は、何となく理解できるよ。わたしの大好きな、町立学校のおじいちゃんの校長先生が、同じようなことを話してくれたことがあるから。
〈神霊術と魔術は、まったく別のものだが、それは神が介在するかどうかの違いなのかもしれない。我らはご神霊から賜った印の力で術を使い、他国の人々は、魔術の術式と魔術触媒によって、近しい奇跡を起こすのではないかと、わしは思うんだよ、サクラっ娘〉って。
ちなみに、〈サクラっ娘〉っていうのは、髪の毛がサクラ色だからって、校長先生がつけたわたしの呼び名なんだ。言語感覚はあれだけど、わたしが一人で校長室に遊びに行ったときには、いろんなことを話してくれるんだよ。
わたしが、そんな校長先生の話をすると、ヴェル様は、ちょっと驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑ってくれた。
「チェルニちゃんは、先生に恵まれているのですね。素晴らしい洞察力だと思いますよ。ルーラ王国では、神霊術と魔術を同一視することを、ご神霊への不敬だと考えがちです。わたくしも、二つが同じものだとは思いませんが、まったく別のものなのかというと、疑問が残るのです」
「今まで、考えたことがなかったんですけど、たしかに不思議ですよね。そうだ。わたし、スイシャク様とアマツ様に聞いてみましょうか?」
わたしの言葉に、ヴェル様は、大きく目を見開いた。口の中でぼそぼそと、〈これはこれは。今、ご自分が、どれほどとてつもないことを口にしたのか、理解していないのでしょうね、このお嬢様は〉とか、つぶやいていた気がするけど、つまりは、聞いてもいいってことだよね?
ヴェル様に止められなかったので、わたしはスイシャク様とアマツ様に、心の中で質問してみた。祈祷ほどの祈りをこめず、イメージを送っただけだったんだけど、ちゃんと答えは返ってきた。
〈神にも物怖じせざる者也〉〈労たし、労たし〉〈供物と料の違い也〉〈何れは律に行き着かん〉〈学び励めよ〉って。
スイシャク様とアマツ様のメッセージは、わたしには、よくわからないものだった。ヴェル様は、真剣な表情で考え込んでいたけどね。
そんなとき、オルトさんたちが、手に手に荷物を持って、図書室に戻ってきた。ずっと、ぶつぶついってたミランさんは、それを見て、静かに動き出した。初めて見るような真剣な顔で、ゆっくりと指を動かし始めたんだ。
印を切るときに似ているけど、何となく全部が違っている。ヴェル様が、そっと〈魔術の術式ですよ〉って教えてくれた。
口の中で何かを呟きながら、ミランさんが指先を動かすに連れて、足元に複雑な模様が描かれていった。多分、ミランさんの中にある魔力で生み出されたはずの、ほのかな光の模様。両手を広げたよりも大きいくらいの円に、わたしには読めない文字と数字らしきものが、びっしりと浮かび上がっているんだ。
子供たちを誘拐したセレント子爵が、転移魔術を使おうとしたときと同じ、魔力そのものの気配が、図書室に立ち込めているのが、わたしにはわかった。
「よし。術式は展開した。伯父上、魔術触媒は持ってきてもらえましたか?」
「持ってきた。補助の術式を組み込んだ水晶、巷で魔石とも呼ばれている、貴重な触媒をな」
「では、三人とも、魔術陣の中に入ってください。できるだけ身を寄せて。お互いに、身体に触れていた方がいい」
「わかった」
「大丈夫なのか、ミラン?」
「ええ。大丈夫ですよ、アレン。大公殿下のお屋敷には、先に魔術陣を刻んでありますからね。道はすでにつながっています。魔術触媒で消費魔力を効率化すれば、わたしの力だけでも、四人が転移できますよ」
「いいぞ、ミラン。それでこそ、わたしの息子だ。神霊術、神霊術というが、転移できる術など、神霊術にあるものか。おまえは、神霊術を超えようとしているんだ。〈神去り〉がどうした。神霊術を使えなくても、魔術があれば十分ではないか!」
「触媒を、伯父上」
「わかった。頼むぞ、ミラン」
「皆んな、もっと近くに寄ってください」
ミランさんの言葉に従って、円形の魔術陣の上で、四人が身体を寄せ合った。ミランさんは、魔術陣の光の線に沿って、魔力を通そうとするんだけど、ミランさんの魔力だけだと、光の線の上を滑っていくだけで、何だか空回りしているみたいだった。
そのことがわかっているのか、ミランさんは、右手に持った水晶にも、同時に魔力を流し始めた。すると、魔力は水晶に吸い込まれてから、魔術陣の上で空回りしている魔力の上に、きらしらした光の粒になって降り注いでいった。
その瞬間、ミランさんの魔力は、残らず光の線に吸い込まれた。ほのかに光っていた線は、途端に輝きを強くして、図書室を明るくするくらいの閃光になったんだ!
「成功だ。発動するぞ!」
ミランさんの叫び声とともに、光の線で描かれた転移魔術陣は、いっそう強く発光した。そして、光が収まった後には、ミランさんたち四人の姿は、幻みたいにかき消えていたんだよ……。
◆
何かを話す間もなく、わたしの視界はくるりと変わった。見えてきたのは、もう夕闇に沈んだ景色の中に浮かび上がる、すごい大豪邸だった。
それは、真っ白な石造りの建物で、雰囲気が王城によく似ていた。まるで小さな王城みたい。わたしがそう思っていると、視界を共有しているヴェル様が、「大公の邸宅です。王都では、《白鳥小城》と呼ばれています〉って教えてくれた。
巨大で、美しくって、優雅な建物は、本当に小さいお城だったわけだけど、神霊さんの〈目〉を借りているわたしには、しっかり、はっきり見えていた。制服を着た門番さんが二人、しっかりと守っている正門に、わたしの身長くらいありそうな紙が、でかでかと張り出されていたんだ。
本当なら、人の目には見えないはずの紙には、血の色みたいに赤い文字が書かれていた。クローゼ子爵家の正門に貼られていたのと同じ、神霊さんからの〈去り状〉なんだろう。書かれた文字は、たった一言。〈神敵〉だった。
その血色の文字を見た瞬間、わたしの髪の毛がぞわって逆立って、全身がぶるぶる震えた。怖い怖い怖い!
〈神敵〉って何さ? いや、何となく意味はわかるけど、怖すぎるって。森羅万象、八百万。遍く神霊さんの存在するルーラ王国で、〈神敵〉って!
あまりの衝撃に、わたしが固まっていると、いつものように赤と白の光の帯が、わたしをぐるぐる巻きにしてくれた。それから、わたしを慰めるためのメッセージが、スイシャク様とアマツ様から流れ込んできた。
大丈夫だから、落ち着きなさいって。大公の〈悪行〉は、〈神敵〉っていう言葉に該当する種類のものだけど、それだけですぐに罰するわけじゃないんだって。死後は、〈虜囚の鏡〉に囚われることが決まっているだけで、〈人の子の罰とは別〉なんだよって。
優しい紅白の光に巻かれながら、わたしは何となくわかった気がした。神霊さんと人の子とは、見ている世界が全然違うし、流れている時間も違う。だから、〈神敵〉と見なされた大公だって、〈鬼成り〉のクローゼ子爵家の人だって、そのときに罰を受けるとは限らないんじゃないかな。
わたしたちには、わたしたちの理屈と法律があるように、神霊さんには、神霊さんの理屈があるんだろう。現世の誰にもわからなくて、何なら神霊さんにだってわからないかもしれない、人の子と神霊さんとの〈隔たり〉は、〈神威の覡〉であるネイラ様には、どう見えているんだろうね……。
わたしが、そんなことを真剣に考えていると、腕の中のスイシャク様が、ふくふくに膨らんで、喜びのメッセージを送ってくれた。〈聡し〉〈我が慈悲は、悠久の時の流れと共にあり、刹那の人の子には、全てを知ること能わず〉って。
アマツ様は、逆にちょっとだけ不満そうで、真紅の羽根先でスイシャク様をぺちぺち叩きながら、〈□□□□□□□□の慈悲は、雅人深致。只人には届かず〉だって。スイシャク様の慈悲は深すぎるから、人の子にはわからない……っていう意味だと思う、多分。
とっても仲の良さそうな神霊さん同士、スイシャク様とアマツ様にも、見解の相違があるんだって、ちょっと驚いているうちに、わたしの視界は、小城の中へと移動していった。
広い玄関ホールを抜けて、長い廊下を通って、煌びやかな螺旋階段を登って、奥へ奥へ進むと、二人の騎士が警備している部屋があった。大公のお城の中に、さすがに雀はいないんじゃないかと思うんだけど、わたしの視界は、かまわずに部屋の中に入っていく。
そこにいたのは、見るからに上等の服を着た、初老の男の人だった。威厳っていうのかな? 切れ長の青い瞳にも、引き結んだ唇にも、眉間に寄ったしわにも、細身の身体つきにも、思わず謝りたくなるくらいの迫力があった。
ヴェル様が、同じくらい威厳のある顔をして、〈さあ、チェルニちゃん。大公の登場ですよ〉ってささやいてくれたけど、見た瞬間からわかってたよ、わたし。
巨大な机に座って、何か書き物をしていた大公の額には、滴る血の色で、〈神敵〉って刻まれていたから。
大公の迫力と、額の文字の恐ろしさにびっくりして、わたしが沈黙しているうちに、部屋の空気が変わり始めた。クローゼ子爵家の図書室を満たしたのと同じ、濃密な魔力の気配だった。
きらきら、きらきら。部屋の床が光り始めたかと思ったら、ゆっくりと魔術陣が浮かび上がってきた。ようやく気がついたらしい大公と、横にいた執事っぽい男の人が、ぎょっとした顔をして立ち上がる。
大公が身構え、執事っぽい人が、大公をかばうみたいに前に出たところで、魔術陣が強く光った。まぶしい光が収まって、輝きをなくした魔術陣の上には、ミランさんたち四人が立っていたんだ。
大公は、あんまり驚いた顔は見せなかった。ただ、不機嫌に眉毛を寄せてから、オルトさんに話しかけた。
「どういうつもりだ、オルト。何の先触れもなく、いきなりわたしの執務室に転移するとは、いくらおまえでも不躾だろう」
「申し訳ございません。緊急事態なのです」
「そんなことは、わかっている。私が貸し与えた騎士から、報告もあった。しかし、報告を超えた非常時でなければ、成功するかどうかもわからない転移魔術を使ってまで、押しかけてはこないだろう。何があったのだ?」
「マチアスに出し抜かれました。我らの留守を狙って、アイギス王国の紋章の入った書類を盗んでいったのです」
「……例の書類か?」
「はい、そうです。少なくとも、あの書類は盗み出されてしまいました」
「マチアスは、それをどうするつもりなのだ?」
「我らを告発すると。その足で、王城にいる宰相を訪ね、証拠を渡すと申しておりました。あの男がクローゼ子爵に復位したのも、我が屋敷に戻ったのも、すべては宰相と謀って、我らの罪の証拠を探すためだったようです」
大公は、すぐには返事をしなかった。何もいわず、怒った顔も見せず、無言で移動した大公は、飾り棚の上に飾ってあった、とっても高そうな大皿を、優雅な仕草で手に取ると、そのまま壁に叩きつけたんだ!
ガシャーンって、すごい音がして、大皿は粉々に割れちゃった。それでも、大公は何にもいわないし、眉間のしわが深くなっただけで、表情さえ変わっていない。
大皿の次は、綺麗な百合の花をいけてあったガラスの花瓶で、百合の花や水も一緒に、やっぱり壁に叩きつけた。ガシャーン! 机の上の優美なランプを手に取って、ガシャーン! 分厚い本を手に取って、ドゴーン! 壁際に飾ってあった鎧を蹴り上げて、ガシャーン! 鎧の横に立てかけてあった剣を投げつけて、グサーッ!
オルトさんたちも、執事っぽい男の人も、顔が真っ青になっているんだけど、皆んなが硬直しているだけで、大公を止めるための言葉もかけられないみたいだった。花瓶を投げつけたあたりで、護衛騎士の人が慌てて様子を見にきたんだけど、もっと慌てて部屋から逃げていったし……。
しばらく荒ぶったまま、部屋をめちゃくちゃにした大公は、同じ無表情のまま椅子に座り、静かな声で呼びかけた。〈オルト。我が不肖の息子よ。端的に説明せよ〉って。
いやいやいや。やってることと表情が、かけ離れてる。本当に怖いし、変だよ、この人!
オルトさんは、壊れた人形みたいにカクカクしながら、必死に事情を説明した。ときおり質問をはさみながら、じっと聞いていた大公は、ドーラっていう名前らしい、執事っぽい人に声をかけた。
「本日、王城では外交使節団を迎えて、晩餐会が開かれるのであったな、ドーラ?」
「左様でございます。閣下がお出ましになる時間も、迫っております。もうそろそろ、お支度をしていただきませんと」
「宰相は、晩餐会に先駆けて、外交使節団との会談であったな?」
「左様でございます」
「ならば、マチアスの身分では、すぐに面会は叶うまい。最短でも、会談後になろう?」
「恐らくは」
「ならば、即座に手を打つ。風の神霊術を使わせて、マチアスを呼び戻させよ。証拠を持ったまま、我が屋敷に来るようにと」
「しかし、閣下。マチアスが命令に従うとは思えません。あの男、いつもとは違って、不敵な態度でございました」
「案ずるな、オルト。マチアスは、絶対に戻ってくるし、黙らせることも容易い。あの男には、唯一無二の弱点があるのだから。マチアスを足止めしている間に、証拠そのものを消してしまえばいい。大公騎士団の中で、即座に動かせるものは何人いるのだ、ドーラよ?」
「四十人はおりましょう」
「では、今からキュレルとかいう街に向かわせろ。力押しで守備隊とやらに押し入り、捕縛された〈白夜〉を消せ。フェルトという男も、必ず殺せ」
「表立って騎士団を動かせば、発覚してしまいますよ、閣下!」
「黙れ、オルト。疑われるのも、犯行を知られるのも、承知の上だ。仕方なかろうが。無理にでも証人を消して、交渉に持ち込む余地を残すしかない。状況証拠だけであれば、我が身に流れる〈青い血〉と、陛下を盾にもできるのでな。急げ」
「マチアスへの知らせには、何と書けばよろしいでしょうか?」
「証拠を持ったまま、即座に戻らないときは、別邸にいる我が姉、オディールを殺すと」
「信じますか? 閣下が姉君を害されるなどと」
「信じなくとも良い。万にひとつの危険でもあれば、マチアスはすべてを捨てて従う。我が姉オディールは、マチアスにとって、それだけの価値がある女なのだ。愚かなことにな」
そういって、大公は冷たく笑った。え? 待って、待って! 大公のお姉さんって、オディールって、マチアスさんと引き離されて、ヨアニヤ王国にお嫁に行った、あの気の毒なお姫様じゃないの!?