連載小説 神霊術少女チェルニ〈連載版〉 2-13
〈鬼成り〉のことは、町立学校でならった記憶がある。といっても、ちゃんとした神霊術の授業じゃなくて、低学年のときに読んでもらった物語の話だけど。
心悪き男と女は、神霊様のご恩を踏みにじり、悪行を重ねて人々を苦しめたあげく、人から鬼へと変化してしまいました。これを〈鬼成り〉というのです――そう書かれていた本の、妙に生々しい挿絵が怖くって、今でも鮮明に覚えているんだ。
優しいスイシャク様とアマツ様が、すぐに紅白の光を強くして、わたしをぐるぐる巻きにしてくれたから、叫んだりすることはなかったけど、怖いものは怖い。
物語の中の話だとばかり思っていた〈鬼成り〉を、十四歳にして目撃してしまうなんて、想像したこともなかったよ、わたし。
本の挿絵では、口が耳まで裂けている女の人とか、ツノが生えて牙を向いた男の人が描かれていた。実際の鬼成りは、かなり違っているみたい。カリナさんの綺麗な顔は、やっぱり綺麗なままだった。
ただ、程よく露出したカリナさんの胸元が、なんだかボコボコと波打っている。真っ白な肌も、ところどころが濁った緑色になっていって、わたしが不思議に思った瞬間、いきなり何かが飛び出した。
えっと思って目を凝らすと、手首くらいの太さのある、腐った沼みたいな色の蛇が一匹、カリナさんの胸元から生えているんだよ……!
あまりの衝撃に、わたしはスイシャク様にすがりついた。それから、震えながら見直したんだけど、いくら見ても〈生えている〉としかいいようがなかった。
元々の白い肌と腐った緑色がまだらになった、カリナさんの豊かな胸元から、胴体の半分くらいを生やした蛇は、きゃしゃな首の周りを一周してから、艶やかな栗色の髪の上に頭を預けていた。そして、その蛇には頭が三つもあって、それぞれに牙をむき出しにしていたんだ。
カリナさんの額にあった〈乱倫〉の文字は、跡形もなく消えちゃって、後にくっきりと〈三岐〉って書かれていたのは、きっと蛇の頭の数なんだろう。
スイシャク様とアマツ様は、〈初手から三岐とは業深きこと〉とか、〈一の蛇は淫奔、二の蛇は苛虐、三の蛇は毒心か〉とか、盛んにイメージを交換していた。
アマツ様が、〈業火にて燃やし清めるか〉とかいってるのは、聞かなかったことにしよう。そうしよう。
守備隊の応接室にいる人たちは、当のカリナさんも含めて、誰も変化に気づかないみたいだった。スイシャク様が、すぐに教えてくれたところによると、わたしが見ているのは神霊さんの視界に近いものだから、人にはわからないんだって。
唯一、蛇が見えているのは子雀で、アリオンお兄ちゃんの胸ポケットの中で、ぶわっと膨らんだまま硬直している。そりゃあ、無理もないって。小さな可愛い子雀なんて、蛇に丸呑みにされちゃうからね。
今日の晩ご飯のときには、わたしもパンのかけらをあげて、思いっきりなぐさめるよ、子雀ちゃん。
うちの家でも、言葉だけを伝えていたお父さんとお母さんは、戸惑った顔をして、わたしを見つめていた。ずっとそばにいてくれるヴェル様は、スイシャク様の羽根を触媒にして、だいたいのイメージを視覚化できるもんだから、青白い顔をして硬直してる。万能執事のヴェル様でも、鬼成りを見たことなんて、ないに決まってるしね。
カリナさんの変化は、十四歳の少女が目撃するには、あまりにも衝撃的な光景だったと思う。でも、とっても優しくて教育熱心なスイシャク様は、視界を切断してはくれなかった。
ぐるぐる巻きをもっと強くしながら、優しく慰めてくれる気配と一緒に、そっと送られてきたのは、深い意味のあるイメージだったんだ。〈幼き子に酷なれど、衆生を救うは我が役目。眷属たる其の洗礼に、三岐の穢れを覧あれかし〉って。
正直にいうと、今回のスイシャク様のイメージは、わたしにはむずかしすぎて、あんまり意味がわからなかった。ただ、スイシャク様もアマツ様も、わたしのことをとっても心配してくれていて、それでもカリナさんの変化から、目をそらさないようにって望んでいることは、よく伝わってきたよ。
そうこうするうちに、最初に動いたのは、アリオンお兄ちゃんだった。カリナさんたちにぐっと近づいて、フェルトさんの真横に移動したんだと思う。その視界が微かにぶれたのは、きっと子雀が震えちゃってるんだろう。
アリオンお兄ちゃんには、カリナさんの変化は見えていない。それでも、フェルトさんを守るために、本能的にそばに寄ったんだって、わたしにはわかった。もう十四年も、大好きなアリアナお姉ちゃんの妹をやってるからね。
スイシャク様とアマツ様は、〈其の姉たる衣通は剛毅〉って、しっかりほめてくれたよ。
カリナさんは、アリオンお兄ちゃんに視線を向けてから、なんにも怒ってないみたいな顔で、微笑みながら質問した。
「あら。そちらの少年は、どなたなのかしら、フェルト様?」
「騎士見習いとして、わたしの世話をしてくれているものです。わたしの大切な婚約者の親戚で、将来有望な少年です」
「なぜ、急に前に出てきたのかしらね?」
「先ほど、貴女が不穏な気配を発したので、わたしを心配してくれたのでしょう。ありがたいことです」
「不穏だなんて、ひどいわ。フェルト様が、わたくしの話を少しも聞いてくださらないし、精一杯の告白を簡単にお断りになるから、悲しかっただけですのに」
「いや、悲しいという顔ではありませんでしたよ。なんというか、表面は普通にしているのに、後ろに大蛇でも背負っているような感じでした。わたしは、愛する婚約者としか交際した経験がないので、女性を怖いと思ったこともなかったのですが、認識を改めました。怖いですよ、クローゼ子爵令嬢」
おお。フェルトさんってば、すごく鋭い! さすがに、かなりの神霊術の使い手だけあって、霊的な気配に敏感なんだね。女性に対する言葉としては、めちゃくちゃ失礼なことをいってる気がするけど、それはまあ、しかたないだろう。
フェルトさんのあんまりな言葉に、〈嗜虐〉のミランさんは、怒った顔で食ってかかった。
「おまえ、いくらなんでも無礼だろう。親族として扱ってやれば、いい気になって。カリナは、クローゼ子爵令嬢だぞ。不敬罪で告発されたいのか!」
「どうぞ、そうなさってください。ありがたいことに、我らがルーラ王国では、無礼打ちは許されておりませんからね。わたしを不敬罪に問いたければ、王都の守備隊にでも警ら隊にでも申し出てください。この程度の発言では、大した罰にはなりませんので、それで貴方たちと縁をつながなくてすむのなら、ありがたいことですよ」
「ミランったら、お願いだから黙っていてちょうだい。ねえ、フェルト様。本当に、何か誤解があるような気がするの。わたくしの祖母が、貴方のお母様につらく当たったことは事実かもしれないけれど、祖母も後悔しているの。貴方のお顔を見せて、謝罪する機会を与えてやってはいただけないかしら」
そういって、悲しそうにまつげを伏せたカリナさんは、すごく綺麗で儚気だった。胸から蛇を生やしていなければ……。
悲しげなカリナさんの頭の上で、三匹の蛇が牙をむいて頭を起こし、ずっとシャーシャーいってるから、本当は怒り狂ってるんだろうな、カリナさん。
「同じ血を持つ一族ですもの。きっとわかり合えると思うの。どうか王都の屋敷にいらして、祖母や父に会ってください。よろしいでしょう、フェルト様」
「お断りします」
「……。即答なのね。わたくしが、こんなにお願いしてもだめなのかしら」
「貴女のお願いを聞く理由など、わたしにはありません。純然たる迷惑です」
「クローゼ子爵家の当主の座に、本当に関心はないのかしら? 爵位は子爵だけれど、近衛騎士団長の座も狙えるほどの名門なのよ」
「無関心です。貴女たちがお帰りにならないのなら、わたしの方が失礼します。総隊長、ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。業務に戻ります」
そういって、フェルトさんは立ち上がり、本当にカリナさんたちには挨拶もしないで出て行っちゃった。わたしの義兄になる人は、清々しいくらいぶれないみたいで、とってもカッコいい。よかったね、アリアナお姉ちゃん。
アリオンお兄ちゃんの胸元の子雀が、ほっとしたみたいに身体の力を抜いたのは、きっとカリナさんから離れられたからだろう。子雀が無事で、わたしもほっとしたよ。
その後、残されたミランさんは、フェルトさんを連れ戻すようにって、総隊長さんに命令していたんだけど、総隊長さんは相手にしなかった。本人が拒否している以上、面会を強要するのなら、法理院の命令書を持ってくるようにって、毅然と対応していたんだ。
カリナさんとミランさんは、しぶしぶ守備隊の本部を出て行った。馬車に乗るとき、本部の建物をにらみつけたカリナさんは、まさに〈鬼の形相〉っていう感じだった。
やっぱり綺麗な顔のままだったから、誰にもわからなかったと思うけど、腐った沼みたいな色だった三匹の蛇は、なぜだか身体のあちこちを腐らせて、いっそう不気味なまだら模様になっていた。カリナさんってば、この先どうなっちゃうんだろうね……。
◆
スイシャク様の雀たちは、蛇つきのカリナさんのことが怖いだろうに、近くまで飛んで行って、声を拾ってくれた。本部の建物をにらみつけていたカリナさんは、気を取り直したみたいで、ニタァって笑いながら使者AとBに命令したんだ。
「わたくしたちを、今から〈野ばら亭〉とかいう店に案内しなさい。お前たち、場所はわかっているのでしょう」
「カリナ様がご自身で、〈野ばら亭〉に足をお運びになるのですか?」
「そうよ。あのフェルトという男は、どうしようもないわ。人の価値も、物の値打ちも、地位や権力の意味さえも理解できない愚鈍ですもの。こうなったら、〈野ばら亭〉のものたちを使って、いうことを聞かせるまでよ」
「ですが、カリナ様。フェルト殿の婚約者という娘は、しばらく留守にしているそうなのですが……」
「ロマン様のおっしゃる通りなんです、カリナ様。〈野ばら亭〉に行かれましても、フェルト殿の女にはお会いになれません。わたしとロマン様で、確認しております」
「田舎者の婚約者とやらがいなくても、その女の両親がいるのでしょう。女の居所を聞き出しましょう。警戒して話さなかったとしても、適当に脅しておけば、自分たちの方から、婚約を破棄するでしょうし、そう仕向ければいいだけのことよ」
「それに、フェルトの婚約者は、美人姉妹の姉の方なんだろう。この機会に、家にいる妹を見ておきたい。十四の美少女なんて、最高の――」
このあたりで、ふいに言葉が聞き取れなくなって、スイシャク様が強引に視界と声を断ち切った。わたしのことで、なんだか不穏な相談をしていたみたいだから、きっと教育的な配慮なんだろう。
そう思って、なにげなく応接間を見回すと、みんながすごいことになっていたんだ。
わたしの大好きなお父さんは、見たこともないほど険しい形相で、じっと空をにらんでいた。お父さんの身体からは、手でつかめるくらいに濃密な、怒りの気配が立ち上っていて、周りの空気まで色がちがって見える。
あんなふうにお父さんを怒らせたのが、もし自分だったとしたら、きっと漏らしちゃうんじゃないかと思う。十四歳の少女としては、あるまじき感想だけど。
うちの美人のお母さんも、やっぱり激怒していた。三日月型につり上がった唇からは、ギリギリと歯軋りの音が聞こえているし、エメラルドみたいにキラキラした瞳は、光を消して空洞になったみたいなんだ。
カリナさんの蛇にでも、対抗できるんじゃないかと思うくらい、本気で怖いよ、お母さん。
ヴェル様は、お父さんやお母さんとは正反対だった。とっても冷静で、怒った顔なんてしていなかった。ただ、いつもは優しいアイスブルーの瞳が、凍ったように冷たくて、奥の方で何かがひっそりと燃え上がっていた。
優しくて紳士的なヴェル様は、本当はとっても厳しくて怖い人なんだって、初めてわかった気がする。もちろん、わたしのために怒ってくれているんだから、わたし自身は、少しも怖いなんて思わなかったけど。
そして、スイシャク様とアマツ様は、とっても危なかった。だって、真っ白な羽毛をふくふくさせた、巨大な雀のスイシャク様も、ルビーみたいに煌めいている、紅い鳥のアマツ様も、その形を保てなくなってるんじゃない?
紅白の鳥の姿は、ゆらゆらゆらゆら、揺らめいていた。そして、鳥の形が崩れたかと思うと、スイシャク様は純白の光の渦、アマツ様は真紅の光の渦になって、次の瞬間にはまた鳥の姿に戻っていくんだ。
スイシャク様から教えてもらったわけでもないのに、このとき、なぜかわたしにはわかっていた。優しくて慈悲深い〈和魂〉として、現世に顕現されたご分体が、激しくも荒々しい〈荒魂〉へと、存在のあり方を変えようとしているんだって。
とにかく、スイシャク様とアマツ様に落ち着いてもらわないと、なにが起こるかわからない。アマツ様なんて、今すぐにでも、カリナさんたちを燃やしちゃいそうだし。
わたしは、必死になってスイシャク様とアマツ様に呼びかけるんだけど、まったく聞いてもらえない。神霊さんの方から、耳を澄ましてもらえないと、人の子の言葉は届かないんだろうね。
途方に暮れていたわたしは、不意に思い出した。昨日、スイシャク様とアマツ様に、お礼の言葉を届けたくて、それができなくて、〈思念の気化〉をしようとしてたなって。
スイシャク様たちからメッセージが送られてくるのは、空から雨が降ってくるみたいに、すごく簡単で自然なこと。口に出した言葉や、心に思ったことをすくい上げてもらうのも、やっぱり簡単で自然なこと。でも、わたしから意識してメッセージを届けるのは、地面から空に向かって雨を降らせるみたいで、すごくすごくむずかしいことだった。
だから、水蒸気みたいな気体にすれば、天までだって届くんじゃないかって、わたしは思ったんじゃなかったっけ?
急がないと、本当に危ない。カリナさんたちに神罰が下っても、正直わたしは気にしないけど、子供たちの誘拐事件を解決するために、ネイラ様が罠を張っているんだから、今は止めるしかないんだ。
わたしは、〈お心を鎮めてください〉っていうお願いで、心をいっぱいにした。ネイラ様が困るから、子供たちを助けたいから、罪人は国が裁いてくれるから、今はお鎮まりくださいって、魂の底からお願いした。
最初のうちは、全然うまくいかなかった。でも、たっぷりと雨上がりの水蒸気を含んだ晴れの日に、綺麗な虹がかかる光景を思い浮かべたら、パンッて、なにかの殻を破った音がしたんだ。
次の瞬間、わたしのお願いは、〈祈祷〉になったんだって、教えられるまでもなく理解できた。そして、わたしのちっぽけな祈祷は、柔らかなサクラ色の光球になり、ふらふらしながら回路をよじ上って、スイシャク様とアマツ様に届いたんだ!
その途端、鳥の形と光の渦の間で揺らめいていた、スイシャク様とアマツ様が、ぴたっと動きを止めて、すごい勢いでわたしの顔をのぞき込んできた。
〈其の祈祷か〉〈出来した〉〈目出たきサクラの祈祷とは、重畳〉って、ものすごく強い喜びのメッセージが送られてきたときには、スイシャク様もアマツ様も、もう可愛い鳥の形に定まっていたんだよ。
それからは、なんとか皆んなが落ち着いてくれたから、本当にほっとした。守備隊の本部から、うちの〈野ばら亭〉までは、馬車だとそんなに時間がかからないから、もうすぐカリナさんたちが到着しちゃうんだ。
「大丈夫よ、チェルニ。わたしとダーリンがお相手するから、わたしの可愛い子猫ちゃんは、お家で待っていてちょうだい」
「そうだ、チェルニ。お前は、影も見せるな。いいな?」
「はい、お父さん! 約束します!」
「いい子だ。チェルニのそばにいてくださいますか、オルソン子爵閣下?」
「もちろんですとも、カペラ殿。二柱の御神霊がお守りくださるのですから、何人たりともチェルニちゃんを害することなどできませんが、人の子は人が守るのが筋というもの。身命を賭して、チェルニちゃんをお守りしましょう」
「ありがとうございます、閣下。よろしくお願い申し上げます」
「あの者どもとの対面には、必ず我が部下を複数同席させてください。よろしいですね、カペラ殿」
「必ずそういたします、閣下」
お父さんたちが真剣に話し合っている横で、スイシャク様とアマツ様は、ひたすらわたしの祈祷を喜んでくれていた。おかげで、うちの応接間は、乳白色の光の点滅と、朱色の鱗粉の洪水で、〈この世ならぬ光景〉っていう感じになってるよ。お父さんたち、この中でよく普通に話していられるね?
ともあれ、間もなくカリナさんたちが、〈野ばら亭〉にやってくる。まだ作戦二日目なのに、濃密な毎日だよ、本当に……。