連載小説 神霊術少女チェルニ〈連載版〉 2-14
守備隊の本部を出発したカリナさんたちは、まっすぐに〈野ばら亭〉を目指しているみたいだった。
たくさんの雀たちに、交代で見張ってもらいながら、わたしたちも、カリナさんたちを迎えるための準備を始める。といっても、お父さんとお母さんが〈野ばら亭〉に戻っていって、わたしはヴェル様と一緒にいるだけなんだけど。
お母さんは、わたしのことをぎゅっと抱きしめてから、気合い十分に出て行った。お父さんは、わたしの頭を大きな手でなでてから、静かに出て行った。
うん。わたしのお父さんとお母さんは、きっと大丈夫。胸元から蛇を生やしたカリナさんにだって、そう簡単には負けないと思う。何となく、そんな気がするんだ。
守備隊の本部から〈野ばら亭〉まで、馬車を使えば、そんなに時間はかからない。スイシャク様とアマツ様に急かされて、何度か〈祈祷〉の練習をしているうちに、カリナさんたちが乗っている馬車は、すぐ近くまでやって来た。
ところが、不思議なことに、〈野ばら亭〉が見えるくらいの距離になってから、馬車がちっとも進まなくなったんだ。
わたしの目には、相変わらず軽快に走っているみたいに見えるのに、馬車は同じところにとどまったまま、馬の足だけが動いている。それは、ものすごく不思議で、ものすごく怖い感じのする光景だった。
雀の視界を通して、同じものを見ていたヴェル様は、にんまりと笑いながらいった。
「なるほど。尊き御神霊が御座遊ばす〈野ばら亭〉に、〈鬼成り〉ごときが近づくことは叶いませんか。誠にもって、道理でございますな」
「それって、スイシャク様とアマツ様が守っていてくださるから、カリナさんたちは来られないっていうことですか、ヴェル様?」
「そうですよ、チェルニちゃん。クローゼ子爵令嬢の〈鬼成り〉には、わたくしも肝を冷やしましたが、それはあまりの悍ましさに、生理的な嫌悪感がわいただけのこと。たかだか三岐の蛇ごとき、恐れるには足りません。我が主人には遠く及びはいたしませんが、わたくしの剣ででも、穢れた首を落として見せましょう。まして、尊き御神霊の御前に這い寄ることなど、できるはずがないのです」
ヴェル様の言葉に、膝の上でふっすふっす、上機嫌に鼻を鳴らしていたスイシャク様と、相変わらず大きくなったまま、わたしの頬に優しく頭をすり寄せていたアマツ様が、そろって肯定のイメージを送ってきた。
〈是。三岐までは戒、五岐までは惨、六岐よりは滅〉って。
スイシャク様とアマツ様の説明によると、鬼成りには何種類かあって、カリナさんみたいに蛇が生えるのは、自分の強欲さの結果だから、神霊さんたちからも同情してもらえないらしい。
蛇の頭が三つに分かれた三岐までは、神威に戒められて、神霊さんには近づけない。四岐と五岐は、近づこうとすると痛み苦しむ。そして、六岐よりたくさんの頭に分かれた蛇を生やしていると、近づいただけで滅ぼされるんだって。
スイシャク様は、優しい乳白色の光でわたしを包み込んで、厳かなイメージを送ってきた。〈蛇は覡が滅する故、其は哀しき鬼哭に我が慈悲を伝えよ〉って。鬼哭っていうのは、自分はちっとも悪くないのに、あまりにも酷い目にあって、鬼成りをしてしまった人のことらしい。
スイシャク様のいうことは、わたしにも少しだけ想像できる気がするけど、今はわからないことにさせてもらおう。スイシャク様も、別に急いでないみたいだし、王立学院の入試を控えた、十四歳の少女でしかないからね、わたしは。
ともかく、カリナさんたちと対面するには、通り道を開けてもらうしかない。スイシャク様は、不機嫌そうにふすふすいいながら、可愛い羽根をひと振りした。すると、鈍い銀色の光に覆われた通路が、馬車から〈野ばら亭〉まで、まっすぐに伸びていったんだ。
クローゼ子爵家の馬車は、途端に前に進み出した。ヴェル様が、そっと「裁きの道」ってつぶやいたのは、きっと本当のことなんだろう。
銀色の光に不気味に照らされながら、カリナさんたちを乗せた馬車は、あっという間に野ばら亭に到着した。守備隊の本部に着いたときと同じように、中年の侍女、ミランさんの順で馬車を降りて、カリナさんに手を差し出す。
ミランさんの手を取ったカリナさんは、爪の先まで整えられた、真っ白い手をミランさんに預けて、ゆっくりと降りてきた。馬車の中でお化粧を直したのか、唇はさっきよりも赤く塗られていて、〈艶めかしい〉っていう感じ。着ているドレスは変わっていないんだけど、首飾りは豪華なものになっていて、いかにも貴族の令嬢っぽかった。
野ばら亭に来てくれる、近所のおじさんたちが見たら、ぱかんって口を開けて見惚れそうなくらい、守備隊のときよりももっと、カリナさんは綺麗だった。胸元から生えている蛇が、うねうねとうごめいていなかったら……。
カリナさんたちが、ゆっくりと馬車を降りている間に、さっきも先触れに立っていた、護衛っぽい男の人が、野ばら亭に入っていった。カリナさんたちが来たことを伝えて、場所を準備させるんだろう。
待つまでもなく、護衛っぽい人と一緒に、野ばら亭の制服を着た男の人が出てきて、カリナさんたちを案内した。わたしが見たことのない職員さんだったから、きっとヴェル様の部下の人なんだと思う。
カリナさんたちは、堂々とした足取りで、野ばら亭に入っていった。そして、その瞬間、わたしの心の中で、何かがぷちって切れたんだ。
わたしの大好きな野ばら亭。お父さんとお母さんが、一生懸命に守っている野ばら亭。アリアナお姉ちゃんが、素敵な看板娘の野ばら亭。たくさんのお客さんが、大事にしてくれている野ばら亭。職員さんたちが、家族みたいに仲がいい野ばら亭。お父さんがおいしいパンを焼いて、困っている人たちにこっそり差し上げている野ばら亭。
そんな大切な野ばら亭に、不気味な蛇たちが、平気な顔をして入り込むなんて、絶対に許せない!!
それまでは、なんとも思っていなかったのに、実際にカリナさんたちが入っていくのを見たら、わたしは我慢できなくなっちゃったらしい。
あまりにも激しい怒りに、自分でもどうしたらいいのかわからなかった。家庭環境に恵まれていたから、あんまり怒ったことのない少女なんだ、わたし。
スイシャク様もアマツ様もヴェル様も、びっくりしたみたいにわたしを見て、なだめようとしてくれたんだけど、それよりも早く、あの瞬間が訪れた。二種類の尊い気配が光の速さで近づいてきて、わたしに印を授けようとしてくれたんだ。
神霊さんたちの気配は、スイシャク様とアマツ様に向かって、何かの合図を送っているみたいだった。
スイシャク様は、過去最高にふっくふっくになって、上機嫌に可愛い羽根をばたつかせた。アマツ様は、わたしの肩から飛び上がって、部屋中を朱色の光に染め上げた。
神霊さんたちの会話はわからないけど、新しい印を授かることを、了解し合ってくれたんだろう。
次の瞬間、わたしは一人になって、目に痛いくらい純白の雪原に立っていた。前を見ても、後ろを見ても、右を見ても、左を見ても、白と白と白と白。ちょっと怖くなるくらい、一点の穢れもない、純白の広大な雪原だった。
それから、どこからともなく、澄み切った鈴の音が聞こえてきた。はじめはひとつだけだった音は、ふたつになり、みっつになり、やがて雪原を満たす音の洪水になったんだ。
あまりの場の清らかさに、息が詰まりそうになったけど、わたしは何とか大丈夫だった。だって、頑張って心を落ち着けてみたら、穢れなき純白は、何色にでも染まってくれそうな包容力があって、澄み切った鈴の音は、わたしの怒りをなだめようとしてくれてたから。
うれしくなって、心の中でお礼をいって、そっと身を委ねたときには、わたしの魂に新しい印が刻まれていたんだよ。
ぎゅっと閉じていた目をあけて、家の応接間にいることを確認したわたしは、ほんのちょっとだけ途方に暮れた。自分が今、何の神霊さんから印をいただいたのか、はっきりと理解していたから。
鈴を司る神霊さんと、塩を司る神霊さん。これって、いったいどういう意味があるんだろうね……。
◆
鈴を司る神霊さんと、塩を司る神霊さんっていう、正直、よくわからない神霊さんたちから印をいただいたことで、スイシャク様とアマツ様は、大喜びしてくれた。〈いとも目出たき〉〈よくぞ出来した〉って。
ヴェル様は、ものすごく不思議な表情で、わたしのことを見つめていた。喜んでいるわけじゃなく、もちろん怒っているわけでもない、何だか張り詰めた表情だった。スイシャク様は〈畏れ〉っていうイメージを送ってくれたけど、ヴェル様は、鈴と塩の神霊さんに、畏れを感じていたのかな?
でも、わたしの疑問は、あっという間に流れていった。ちょうどそのとき、野ばら亭で一番上等の応接間に、カリナさんたちが入ってきたから。また、怒りが湧きそうになるのを必死に我慢して、わたしは窓に張り付いてくれてる雀の視点で、じっと中の様子を伺ったんだ。
神霊さんをお祀りするための〈神座〉を背にしたソファには、カリナさんとミランさんが座っていた。その左右には、使者AとBが立っていて、護衛の人たちはドアの外にいるみたい。
向かい側のソファには、お父さんとお母さんが座って、むずかしい顔をしている。お父さんたちの後ろに立って、さりげなく守ってくれているのは、さっきカリナさんたちを出迎えに行った、ヴェル様の部下の人たちだろう。
そして、カリナさんの胸元の蛇は、ちょっと様子が変だった。不気味に生えているのは同じなんだけど、手首くらいあった胴回りが、半分くらいの太さになっている。三岐に分かれた頭も、まるで何かを怖がっているみたいに、カリナさんの結い上げた髪の毛の中に潜り込んでいるんだよ。
平然と微笑んでいるカリナさんの顔色が、少し青白く見えるのは、きっと蛇の態度と無関係じゃないんだろう。
ミランさんは、わざとらしくにこにこしながら、お母さんのことを、じっと見つめていた。わたしのお母さんは、子供が二人もいるとは思えないくらい若々しくて、儚げな美人で、男の人にとっても人気がある。でも、だからって、お父さんの目の前で、ジロジロ見ることはないと思う。本当に失礼な人だよ、ミランさんって。
使者AとBは、貼り付けたみたいな無表情で、黙って立っているだけだった。昨日、野ばら亭の食堂で、おいしそうにご飯を食べていた二人を思い出したら、なぜだかちょっと悲しくなっちゃったよ、わたし。
そんな、どんよりと重たい雰囲気の中、最低限の自己紹介をしただけで、社交辞令とかを全部すっ飛ばし、すぐに本題に入ったのは、わたしの大好きなお父さんだった。
「それでは、ご用件を伺いましょう。王都の貴族家のご令嬢とご令息が、わざわざキュレルの街の宿屋までお越しとは、どのようなお話でしょうか?」
「田舎街の平民風情が、生意気な口の利き方だな、亭主。貴族たる者に対する礼儀は、この田舎では学べないのか?」
「それはそれは、失礼いたしました。わたしの言葉がご不快でしたら、謝罪をさせていただきます。それで、ご用件は?」
「だから、その態度が無礼だというのだ。不敬罪に問うぞ」
「もう、ミランったら。熱くなるのはやめてちょうだい。ごめんなさいね、ご主人。わたくしたちは、フェルト・ハルキスの身内のものですの。ご存知でしょう、フェルトのこと? こちらの娘さんと、親しくしていただいているのですってね」
「ええ。フェルト・ハルキス殿と、我が家の長女は、婚約者の間柄です」
「婚約、ね。フェルトの出生の事情は、聞いていらっしゃる? クローゼ子爵家のことは、いかがかしら?」
「聞いています。クローゼ子爵家とは、まったく無関係な立場であることも、しっかりと聞いています」
「フェルトの立場が変わったことは、ご存知かしら? 急なことですけれど、王家からのお勧めによって、フェルトをクローゼ子爵家に迎え入れることになりましたの。クローゼ子爵の家の嫡子である、わたくしの夫になる予定ですわ」
そういって、カリナさんは恥ずかしそうに微笑んだ。怒るよりも先に、思わず感心しちゃったよ、わたし。一族そろって〈神去り〉になったことで、王家からの厳しい選択を迫られているはずなのに、上手に話をすり替えているんだもん。
完全な嘘はつかないけど、本当のことも絶対にいわない。蛇を生やしちゃった人らしい、狡猾さだと思う。もちろん、見習ったりはしないけどね。
「昨日のうちに、きっぱりとお断りしたと、フェルトから聞いています。恐れながら、クローゼ子爵家に入るつもりはかけらもないと、断言しておりました」
「今日、カリナとわたしが、直々にフェルトに会ってきたんだ。カリナを見て、気持ちも変わったんじゃないか? 万が一、そちらの娘に義理立てしているとしても、それは今だけのことだ。王都の名門貴族の継嗣の座と、田舎街の娘一人、どちらを取るべきかは、いうまでもないだろう」
「決めるのは、フェルトでしょう。わたしの息子になる男は、貴方様がおっしゃるような価値観では、生きていないと思いますが」
「お気持ちはわかりますわ。でも、フェルトの将来のことを、考えてくださらないかしら。王家のお勧めを無下にするなんて、このルーラ王国に生きる臣民として、畏れ多いことですわ。それに、今はよろしくても、数年もするうちには、フェルトも後悔すると思いますの。そうなったときに、つらい思いをなさるのは、あなたの娘さんの方ではなくって? 彼女一人のために、貴族家の当主の座を捨ててしまったんだと、一生恨まれるようになりますのよ?」
「その通りだ。立身出世をどぶに捨てた男の恨みは、女の愛情では埋められないものだと思うがな」
「家を継ぐ立場上、正妻はわたくしですけれど、側室として娘さんをお迎えすることは可能ですのよ。わたくし、姉妹がおりませんので、きっと仲良くできると思うの」
「近衛騎士団長を輩出した名門、クローゼ子爵家の第二夫人だ。守備隊勤めの男に嫁ぐのとでは、比べ物にもならない出世だろう」
「フェルトの大切な方ですもの、きっと大切にしますわ。貴族家では、それが正妻の嗜みなのですから、ご安心なさって。ご主人からもお話して、フェルトが安心して当家に入れるよう、後押ししてくださらないかしら?」
可愛らしく首を傾げて、優しく微笑むカリナさん。蛇つきでなかったら、騙されそうになるくらいの演技力だよ、本当に。
わたしの感覚では、カリナさんたちのいうことは、ものすごく失礼で、ものすごく理不尽なことだと思う。
でも、あんまり身分にうるさくないルーラ王国でも、平民と貴族の身分差っていうのは、やっぱり存在するからね。ほとんどの人たちは、カリナさんたちの主張を、当然だって思うかもしれないんだ。
お父さんは、なんて返事をするのかなって見ていたら、黙って座っていたお母さんが、ぐぐっと前に乗り出した。これは、あれだ。お母さんが、いよいよ戦闘態勢に入ったっていうことだろう。
綺麗で儚げなお母さんは、カリナさんとミランさんに向かって、にっこりと微笑みかけてから、薔薇の花びらみたいなくちびるを開いた。
「お話を伺っていると、少し疑問が出てきてしまいましたの。いくつかご質問させていただいても、構いませんでしょうか?」
うわぁ。お母さんてば、さっきのカリナさんの真似をして、同じ角度、同じ向きで、可愛らしく首を傾げてるよ。カリナさんよりも、ずっと年上の人妻なのに、カリナさんよりも可憐だし……。
〈おまえの演技なんて、お見通しなんだよ。見本を見せてあげるから、やれるものならやってみな〉って、お母さんの高笑いが聞こえる気がする。その証拠に、カリナさんの目尻が微妙につり上がってるよ。
お父さんとミランさんは、お母さんの挑発に気づかないみたいで、ミランさんなんて、ますます熱っぽい目をして、お母さんにうなずきかけてる。帰り道、カリナさんから攻められるだろうけど、それはまったくどうでもいい。
「疑問とは、どんなことですの? どうぞおっしゃってくださいな、奥様」
「では、遠慮なく。お嬢様は先ほどから、ご自身がご長女なので、女婿をお迎えになられると仰せです。けれど、クローゼ子爵家には、ご嫡男がおられるのではありませんか? 近衛騎士団に奉職されている、お嬢様のお兄様が」
「……。調べましたの? 少し失礼ではなくって?」
「まあ! お嬢様ったら。昨日のフェルトさんの話を聞いてしまったら、情報を集めるのが当然ではございませんの。情報といっても、貴族名鑑に載っている程度のことですし」
「兄は……全身全霊で陛下をお守りするために、子爵位を継がない決意を固めましたの。そう、だからこその王命ですわ」
「素晴らしいですわ! 本当に高潔な近衛騎士でいらっしゃいますのね、お兄様は。あら? だとしても、こんなにお美しいお嬢様が、お家におられるのですもの。婚外子として扱われているフェルトさんよりも、有力貴族のご子息か、お強い騎士の方を女婿となさるのが、自然ではありませんの? そもそも、すでに婚約間近でいらっしゃったのでしょう? お相手は、ヘルマン伯爵家のご次男なのですから、婿入りが可能ではありませんの、カリナお嬢様?」
うわぁ……。カリナさんのお兄さんのこととか、わたしはすっかり忘れてたよ。たしか、〈増上慢〉の人だっけ? それに、カリナさんの婚約のこととか、いつの間に調べたの、お母さん?
わたしのお母さんは、基本的に誰にでも親切なんだけど、その気になれば、意地悪もできるみたいだ。〈神去り〉のことを知ってるのに、そのそぶりも見せず、平気で弱みをついてるもんね。
カリナさんとミランさんは、すっかり表情を強張らせている。カリナさんの髪の毛に潜り込んだままの、三つの蛇の頭が、うねうね暴れているから、きっとカリナさんが苛立っているんだろう。
わたし、チェルニ・カペラは、十四歳の少女にして、〈女の戦い〉っていうのを、目撃しているみたいだよ!