フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 1-7
01 ロンド 人々は踊り始める|7 運命の輪
叡智の塔の最上階、ロジオン王国の魔術師団長の専用区画である十三階は、緊迫感に包まれていた。召喚魔術の行使を決めたロジオン王国に対し、ゲーナは〈黄昏の鐘が聞こえる〉と言った。それは、己が忠誠を誓う筈の王国に対して、滅びを予言する暗喩に他ならない。ロジオン王国の未来を危ぶむゲーナの言葉に、アントーシャは、さり気なく壁の一点へと視線を流した。
「何も案じることはない、アントン。忌々しい盗聴の魔術機器は、既に別の物にすり替えておいた。彼奴らが後になって耳にするのは、私の老人臭い愚痴と、それを面倒そうに宥めるお前の相槌だけだろうさ」
「この間、ぼくと大叔父上とで残しておいた音源ですか。元々、盗聴の魔術機器に残っていた音源と入れ替えたのですね」
「そうとも。お前と私で、あれ程力を入れて演技をしたのだ。目眩ましの為の意味のない会話だとも気付かず、必死に深読みをしてくれるだろうさ。釣り人が魚を釣るのではない、魚が釣られてくれるのだと、私の釣りの師匠は言っていたものだがね。さて、この場合は我々と彼奴らと、どちらが魚と言えるのかな」
「大叔父上が魚なら、特大の雷魚だと思いますね。あんなに骨の多い魚など、ぼくは食べたくありませんよ。それで、大叔父上がこの上もなく悪いと断言されたということは、エリク王の決定は覆る余地のないものなのですね」
ほんの僅かな期待と、多大な失望の籠められたアントーシャの問い掛けに、ゲーナは重々しく頷きながら言った。
「そう。早急に事を成すよう、陛下から宰相へ内々に勅命が下ったそうだ。やられたよ、アントン。我々が考えていた以上に、陛下は未知の動力源を求めておられたらしい。宰相の周りの狐共も、今回は安全な巣穴から這い出てまで、陛下に奏上を繰り返していたからな。謀略に縁のない私とお前の二人では、最初から太刀打ち出来る道理はなかったのだろう」
めずらしくも呻き声を上げて、己が頭を搔き毟りたくなるような衝動に、アントーシャは必死に耐えた。苛立ちを発散するよりも先に、アントーシャには、どうしても確かめなくてはならないことが有ったのである。
「それで、召喚の対象は決まったのですか。人か、物か、動植物か」
「未だ決定とまでは言えないが、多分、人になるだろう。動植物は毒性や感染症などの危険が避けられないし、物質は解析に時間が掛かり過ぎる。その点、人であれば比較的容易に実験が出来ると、愚か者共は考えたのだ。更に重要なことは、人であれば隷属させる為の魔術が効力を発揮する可能性が高い、という点だろうさ」
ゲーナが告げた最悪の結果は、同時にゲーナとアントーシャが予想していた通りの答でもあった。アントーシャは、今度こそ低く呻いた。
「何という愚かな真似をしようというのでしょうね、彼らは。異界から人を攫ってきて隷属させ、動力源として搾取しようなどと、まともな国家の考えることではありませんよ。単なる誘拐と脅迫ではありませんか」
「そうだとも。我が祖国は、界を跨いだ犯罪国家に成り下がるのだよ。とは言え、これまでも侵略を繰り返して巨大化し、臣民を道端の雑草のように踏み躙ってきた王国なのだから、何の不思議もあるまいよ。繁栄を極めている我がロジオン王国は、既に亡国の旅路に就いている。国体は保てたとしても、国家としての誇りは死んだのだ」
穏やかな口調で語られた、ゲーナの言葉の苛烈さに、常になく不穏なものを感じて、アントーシャは息を飲んだ。対するゲーナの顔は、既に先程までの憂いの色を消し、場違いな程の明るさに煌々と輝いているようだった。
「大叔父上、何を考えておられるのですか」
「今になって漸く、愛する祖国と決別する意思が固まったのだよ、アントン。今回の召喚魔術は、何があっても失敗させる。魔術師として、これまで多くの罪に加担してきた私も、この分水嶺は踏み越えない。界を超えて恥を晒し、ロジオン王国の犠牲者を増やすことなど決して認めない。私はそう決めたのだ」
ゲーナは、曇りのない顔で微笑んだ。大魔術師として比類ない力を振るってきたゲーナは、様々な魔術機器を開発し、術式を練り上げ、ロジオン王国の発展に多大に寄与してきた。その王国が悪に染まるというのなら、貢献者の一人であるゲーナもまた悪であり、魔術師としても人としても、己が罪を償わなくてはならない。百四十歳もの年を経るまで権謀術数に彩られた貴族社会に生き、長く王城で魔術師団長の職に在りながら、未だに高潔さを失わない男は、そう考えているのである。
アントーシャは、ゲーナの下した決断に言葉を差し挟まず、じっと案じる眼差しを向けただけだった。そんなアントーシャに、ゲーナは唐突に頭を下げた。
「これまで本当に済まなかったな、アントン」
「急にどうなさったのですか、大叔父上。わざわざ貴方に謝られる覚えなど、ぼくには何一つ有りはしませんよ」
「聡いお前は、ほんの子供だった頃から、ロジオン王国の在り方に疑問を持っていたではないか。制約の多い王城の魔術師になるのも、お前の本当の望みではなかっただろう。ロジオン王国の為に働くよりも、その王国に虐げられた人々を救うことこそ、お前の成すべき役割だった。それなのに、私は自分の我儘でお前を傍らに置いてしまったのだ。何よりも、お前に凡庸な魔術師の振りを強いるなど、私の罪は恐ろしい程に重いよ」
ゲーナの言葉に、堪らずアントーシャは顔を伏せた。次席魔術師のダニエから〈才に乏しい〉と揶揄されたアントーシャは、その実、傑出した才能を有していた。アントーシャの魔術の才は、千年に一人の天才と呼ばれるゲーナをすら、遥かに凌駕するのである。
「何一つ真実を悟れぬ愚か者共に、お前が〈魔術師団長の七光り〉と陰口を言われる度に、私は悔しかった。お前程の魔術師はこの世にいない、やがて魔術の深淵を踏み超えるのは、魔術の申し子たるアントーシャなのだと、いつも心に思っていた。しかし、当のお前の悔しさは、私の比ではなかっただろう」
微かに声を震わせるゲーナに、アントーシャは慌てて伏せていた面を上げ、明るい表情を作って微笑み掛けた。
「やはり、ぼくには謝られる覚えはありませんよ、大叔父上。御忘れですか。ぼくが凡庸に見せ掛けたのは、二人で決めた結果ではありませんか。悪目立ちした挙句に王家に縛られ、望まない術を使う羽目にならないように、と。大叔父上がぼくを護ろうとして下さったことくらい、嫌という程分かっていますよ」
「それでも、私が自分の都合で、お前を利用してきた事実には変わりない。そして今回も、お前を頼るしかないのだ、アントン」
「良いですよ、引き受けます。ぼくには何でも仰って下さい。魔術を限界まで行使して死ね、と命じて下さっても構いませんよ」
アントーシャの答は、まるで隣の部屋に行くかのような気軽さを纏っていた。ゲーナは、真剣な表情で問い掛けた。
「私の頼みを引き受ければ、お前は王国そのものを敵に回すことになる。大逆罪の汚名を着せられ、この世界に寄る辺なき身になるかも知れない。お前にはそれも分かっているだろうに、何故一瞬も迷わずに応じるのだね、アントン」
「貴方は、この王国に罪を重ねさせない為に、闘い抜くと決められた。その正義と真実を、ぼくは知っています。真理の徒である魔術師なら、それに従うべきでしょう。それに、改めて言うのも嫌なのですけれど、貴方はぼくの父親のようなものではありませんか。子供の頃からずっと、ぼくは貴方が大好きなのですよ」
わざとぶっきら棒に告げられた、アントーシャの言葉の健気さに、ゲーナは思わず胸を詰まらせた。激しく迫り上がる涙を懸命に抑えて、ゲーナは笑った。静謐な老賢者の仮面を脱ぎ捨てた、 獰猛な笑みだった。
「能く言ってくれた、アントーシャ。それでは、大王国を相手に蟷螂の斧を振るうとしよう。魔術師の誇りに懸けて、召喚魔術の陰謀など粉微塵に叩き壊してやろうではないか。大魔術師ゲーナ・テルミンと、そのたった一人の最愛の息子、魔術の申し子たるアントーシャ・リヒテルの手で」
かくして、後に世界を変革に導く運命の輪は、ロジオン王国の命運を握る人々の間で、緩りと回り始めたのである。
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『フェオファーン聖譚曲』をお読みいただきありがとうございます。
今話にて、「01 ロンド 人々は踊り始める」は最終話となります。
次は「02 カルカンド 状況は加速する」となりますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします!
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