フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 2-1
既刊『フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 黄金国の黄昏』を大幅リニューアルしたものを、投稿しております。
同じものを小説家になろうでも連載中です。
opsol bookオプソルブックより書籍化された作品に加筆修正を加えたリニューアル版で、改めての書籍化も決定しており、2022年春期刊行予定となっています!
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02 カルカンド 状況は加速する|1 一つの忠誠
ロジオン王国の王城が聳え立つ丘陵の中腹、ヴィリア大宮殿を仰ぎ見る一角に、近衛騎士団の広大な練兵場が整備されている。近衛騎士団が有する千頭の馬の内、選り抜きの五十頭を飼う馬房、外周ニセロンに達する馬場、一度に数百人の近衛騎士が鍛錬を行うことの出来る運動場、騎士達の宿舎、食堂等の設備、近衛騎士団で働く使用人の作業場、武器庫や備蓄庫等、様々な施設が連なっているのである。
練兵場の一角に建つ、離宮かと見紛うばかりに瀟洒な建物は、近衛騎士団を統率する本部である。その本部の中庭に設けられた、百セルラ四方の訓練場は、近衛騎士団の幹部だけが使用出来る場所であり、多くの近衛騎士は、その中庭で剣技を披露する機会を待ちながら、日々剣を振るっているのだった。
その中庭の訓練場で、エリク王の正嫡の王子であるアリスタリスは、晩春の眩しい日差しを気にも留めず、愛用の剣を構えていた。ロジオン王国の騎士団では、近衛騎士団、王国騎士団、方面騎士団の何を問わず、刃の薄い細身の軍刀を使う。スエラ帝国の騎士が好んで用いる、重い幅広の片手剣に比べると、一見華奢にも見える剣である。黄白を生み出した王国の鋳造技術は極めて高く、鉄を何度も焼き固めた鋼を使うことによって、王国騎士達の誇る剣は、見た目を裏切る強靭さと鋭さを持っていた。
アリスタリスが愛用する剣も、知らない者が見れば極上の装飾品のようだった。刀身は鏡の如く磨き抜かれた銀鋼、柄の部分は黄白で覆った上に、幾つもの宝石を嵌め込んでいる。国王の寵愛を受ける王子に相応しく、騎士としては不似合いなこの芸術品を、アリスタリスは十五歳から実用に使っているのである。
アリスタリスの眼前には、騎士と思しき男が対峙していた。長袖の上下に軍靴を履き、上から革鎧で上半身を護っただけの軽装は、アリスタリスと殆ど同じでありながら、彼よりも頭一つ以上は大きく、しなやかで強靭な筋肉を感じさせる身体付きをしている。青年と呼べるだろう若さには似合わず、一部の隙もない立ち姿からは、相当の手練れであることを伺わせた。
また、アリスタリスが身に付けている革鎧が、白色に金でロジオン王国の紋章である不死鳥を刻印しているのに対し、騎士の革鎧は深く美しい濃紺地で、胸元には金色の獅子が咆哮する文様が描かれていた。これこそは、ロジオン王国では誰一人知らない者のいない、栄えある近衛騎士団の騎士章なのである。
何合、何十合と打ち合った後、勝負は唐突に緊迫した。剣を右中段に構えたアリスタリスは、右足の一歩を強く踏み込むや否や、同じく中段に構えられた騎士の剣を、素早く片手で撥ね上げる。何処に打ち込んでも防がれるのは分かっているので、敢えて攻撃を届かせようとはせず、次の一歩で相手の胸元近くまで迫る為の、裂帛の気合を込めた目眩しである。
すると、騎士は撥ね上げられた筈の剣を気にも留めず、只、アリスタリスを超える歩幅と速度で一気に距離を詰めてきた。一瞬、騎士の残像が見えたかと錯覚する程の打ち込みは、それだけで相手の間合に入ったのだろう。鋭く呼気を吐き出すと同時に、アリスタリスの白く優美な喉元に、細く尖った剣の切っ先が突き付けられていたのだった。
アリスタリスは、騎士から目を逸らさないまま、強く剣を握り締めていた右手の力を、ゆっくりと解いていった。
「私の敗けだ。降参する。今の攻撃は、自分では中々悪くないと思ったのに、卿にはまるで赤子扱いされてしまった。実力の差は、如何ともし難いな」
アリスタリスの謙虚な態度に、慎重に剣を引いた騎士は、男らしく吊り上がった目元を綻ばせた。卿と呼ばれたのは、近衛騎士団で連隊長を務めている騎士爵、イリヤ・アシモフである。唯一、王妃が産んだ正嫡の王子であるアリスタリスに、決して大怪我など負わさないように、初めて剣を手にした八歳の頃から、アリスタリスの教官は、剣の名手と名高いイリヤの役目だった。
「目眩しだと気付かれてしまえば、その攻撃は逆に相手に付け入る隙を与えます。只の誘いであるからこそ、本気である必要がございます」
「自分では気迫を込めて打ち込んだ心算だったのに、やはりまだ甘かったか」
「気迫は乗っておりましたよ、殿下。只、身体強化の魔術を発動する気配を感じませんでしたので、本命の攻撃ではないと分かっただけでございます」
アリスタリスは、少女めいた唇を軽く尖らせた。言われてみれば簡単に理解出来ることでも、実戦の中で咄嗟に応用するのは難しい。術式や触媒を用いる魔術師とは違い、身体強化の魔術を使う者の多くは、身の内の魔力を体内に循環させることによって、本来の能力を超えた力を振るう。その微かな気配を感じ取り、相手の出方を先読み出来てこそ、優れた剣士なのだと教えたのは、目の前のイリヤに他ならなかった。
小気味の良い音を立てて剣を鞘に収めたイリヤは、悔し気な表情を隠せないアリスタリスに、剣の師としての笑顔を向けた。
「一般の騎士でしたら、今の殿下には敵いません。身体強化の魔術を更に磨いて、御身を護る事に努めて頂ければ、自ずと武力そのものが底上げされて参りましょう。いつも申し上げておりますように、剣の技量とは、元々の体力と剣技、更に身体強化の魔術との総合値で語られるべきものでございますので」
この世界の人間は、一人の例外もなく魔力を持っている。ゲーナのように膨大な魔力量を誇る者もいれば、全力を傾けても数十セリア高く飛び上がるのが限界という者も多い。それでも、王侯貴族や騎士ともなれば、魔力量に恵まれた者が多く、逆に言えば魔力を多く持つ人間程、やはり立身出世の道が拓けていた。
アリスタリスの魔力は、王族としては平均的な所である。長時間に渡って身体強化を続けることは難しい為、視力や敏捷性を伸ばしたり、防御力を底上げしたり、攻撃に力を乗せたりと、必要に応じて目まぐるしく用途を使い分ける。その器用さと魔力操作の巧みさこそ、アリスタリスの持って生まれた才能であり、訓練場では殆どの騎士を凌駕する力を与えていた。
「そうか。今の場合で言えば、止めの攻撃を仕掛ける前に、急所を防御するための身体強化を行う。その上で、偽計の攻撃強化と本気の攻撃強化を重ね合わせれば、卿を騙せる可能性が有ったわけか。魔力発動を感じ取れる程の剣士など、滅多にいないことはさて置くとして、必殺の一撃のために魔力を溜めておくなど、逆効果だったのだな、イリヤ先生」
「左様でございます、殿下。まあ、そのように為された所で、教官としての沽券に関わりますので、まだまだ殿下に一本差し上げることは有りませんよ」
無骨なイリヤのめずらしい冗談に、アリスタリスは機嫌良く笑った。そして、続けて次の勝負に移ろうとした所で、近衛騎士団付の従卒が走り寄って来た。素早く右膝を突いて発言の許可を待つ従卒に、アリスタリスは鷹揚に頷き、直答を許した。
「殿下、御鍛錬中に申し訳ございません。そろそろ、次の御支度をして頂く御時間だそうでございます。何卒御移り下さいませ」
「もうそんな時間か。イリヤ卿、続きは次回の楽しみとしよう」
「畏まりました、殿下。私くしも準備を整えまして、定刻になりましたら、殿下の御部屋に御迎えに参じます」
「近衛の連隊長に、いつも一介の護衛騎士のような真似をさせて悪いな。今日は陛下の名代として動くのだから、卿にも許してもらおう」
「恐れ多い御言葉でございます、殿下。正統なる世継ぎの君たる殿下に付き従うのは、近衛騎士の本分でございますよ」
単なる臣下の追従ではない、イリヤの本心からの言葉に、アリスタリスは喜びと戸惑いの混じり合った顔をした。
「まだ、そうとは決まっていないよ、イリヤ先生」
「大ロジオンの偉大なる至尊の君、我らが無二の忠誠を捧げる国王陛下が、別の選択をなさる筈がございません。本日、陛下の名代として会議に御臨席なさるのも、他の王子殿下方ではなく、アリスタリス王子殿下御一人ではございませんか。近衛騎士如きが、陛下の御心を忖度申し上げるのは不遜ながら、自ずと察せられるものはございましょう。第一、近衛はもう固まっておりますよ、殿下」
固まったのではなく、イリヤ自身が固めたのだろうとは、アリスタリスは口にしなかった。近衛騎士団本部の訓練場で、意味を持った視線を交わし合う二人の頬を、晩春の青い風がそろりと流れ過ぎていった。