フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 1-2
01 ロンド 人々は踊り始める|2 思惑
ゲーナから呼び出されたアントーシャが、叡智の塔に到着した丁度その頃、ロジオン王国の宰相を務める大貴族、エメリヤン・スヴォーロフ侯爵は、三人の客を迎えていた。ロジオン王国に五家しかない公爵家の当主にして、四代前の国王ラーザリ二世の王女を母に持つキリル・クレメンテ公爵と、クレメンテ公爵の貴族派閥の中核を成すオニシム・パーヴェル伯爵、更にパーヴェル伯爵の嫡男で、若くして王国魔術師団の次席魔術師にまでなったダニエ・パーヴェルである。
紺色の御仕着せに身を整えた給仕達が、純白の大理石に金の象嵌で様々な文様を刻み込んだ、宰相執務室の優美な大机の上に、恭しく人数分の紅茶を置いていく。スヴォーロフ侯爵はそれを見届けてから、宰相付きの官吏を全て追い払い、彼らの計画について話し合いを始めた。もう五年以上の時間を掛けて、彼らが張り巡らせてきた、計画という名の謀略は、遂に佳境に差し掛かろうとしていたのである。
優雅な仕草で身を乗り出したクレメンテ公爵は、込み上げてくる興奮を押し殺し、冷静な口調で確認した。
「では、叡智の塔に於いて召喚魔術を行うというのは、陛下の正式な決定だと考えて良いのかね、スヴォーロフ侯爵」
「ええ。本日、内密に陛下の御召しを受け、決定事項として準備を仰せ付かりました。既に下準備は終わったと御報告致しました所、早々に事を行えという御言葉も有りました。陛下の綸言でございますから、何があっても違えることは出来ません」
スヴォーロフ侯爵の言葉を聞いたクレメンテ公爵は、貴族的な相貌に似合いの笑みを浮かべ、パーヴェル伯爵と彼の嫡男は、そっと目で合図を送り合った。
「それは重畳。スヴォーロフ侯爵の手腕には、いつも感心させられるな。これで我がロジオン王国は、スエラ帝国とさえ比べられぬ、永遠の覇者としての栄光を掴むだろう」
「私くしなどよりも、この計画を立てられた公爵閣下こそ、王者の力量を持っておられるものと崇拝しておりますよ」
ロジオン王国の絶対君主たるエリク王の耳に入れば、不敬罪にも問われ兼ねない、極めて危険なスヴォーロフ侯爵の賛辞を受けて、クレメンテ公爵は、僅かばかり誤魔化しようのない喜悦を浮かべた。しかし、発言者である当のスヴォーロフ侯爵は、直ぐにパーヴェル伯爵に視線を移し、こう尋ねた。
「パーヴェル伯爵。そちらの動きは如何だろう。ゲーナ・テルミン魔術師団長は、未だに召喚魔術の行使に抵抗しているようだったけれども」
「全く、時代の読めぬ愚者でございますからな、あの男は。テルミンに就いては、これなるダニエから御説明させて頂きとう存じます。魔術師団長に次ぐ次席魔術師として、テルミンを補佐しているのは、他ならぬダニエでございます故」
クレメンテ公爵とスヴォーロフ侯爵は、それぞれ鷹揚に頷いた。深く一揖することで、答礼に変えたダニエは、ロジオン王国の中核を担う大貴族達にじっと視線を向けられ、大机の下で緊張に強張る手を握った。
「魔術師団長は、叡智の塔の中では、召喚魔術の計画そのものを一切口に致しませんので、先ずは私くしの推測も交えて御報告致しますことを、御許し下さいませ。本日、宰相閣下の御召しを受けた魔術師団長は、叡智の塔に戻った直後、一等魔術師のアントーシャ・リヒテルを呼び出しました。何を置いても参上するように言い、またアントーシャが到着したら人払いをせよと、秘書達に申し付けております」
「アントーシャとは、確かテルミンの甥だったのではなかったか。テルミンは、何故急いでアントーシャを呼ぶのか」
クレメンテ公爵の質問に、ダニエは皮肉な微笑を浮かべ、客観的に聞こえるだろう言葉を選んで、丁寧に説明した。
「アントーシャ・リヒテルは、魔術師団長の遠縁に当たり、誕生した直後から同じ屋敷で暮らしております。生家は侯爵家と聞いておりますが、如何なる理由で親元を離れたのか、知る者はおりません。公正無私と評されることもあるテルミンは、相当この甥が可愛いのでございましょう。魔術の才に乏しいにも拘わらず、若くして私くしに次ぐ一等魔術師の内の一人に取り立てております。今回の呼び出しは、宰相閣下の御言葉を受け、寵愛するアントーシャに何事かを相談する為に、帰宅する間も惜しんでのことと思われます」
スヴォーロフ侯爵は全く表情を動かさず、パーヴェル伯爵は満足気に息子を見遣り、クレメンテ公爵は小さく頷いた。三者三様の反応を見せる中、質問を重ねたのはクレメンテ公爵だった。
「その相談事の内容について確かめられるのか、ダニエよ」
「抜かりはございません、公爵閣下。テルミンの秘書役の一人は、私くしの腹心の部下でございます。彼の者に申し付け、叡智の塔の十三階には、漏れなく盗聴の魔術機器を仕掛けております。暫くすれば、ゲーナがアントーシャに何を言ったのか、詳しく御報告出来るものと存じます」
「テルミンこそは、当代一の大魔術師にして、千年に一人の天才と呼ぶ者もいる。それ程の者に気付かれもせずに盗聴など、可能なのかね」
「勿論、可能でございます、宰相閣下。盗聴の魔術機器は、テルミン自身の魔力によって術式を刻まれた物であるが故に、魔力の質が同一化致します。その為、盗聴や監視を疑って探索の魔術を行使したとしても、簡単には見付けられないのです。また、盗聴を開始する魔術陣は、一年以上前から起動したままにしておりますので、魔術陣の発動を契機に気付くこともございませんでしょう」
叡智の塔に於ける研究の一環として、ゲーナはこれまで多種多様な魔術機器を生み出してきた。盗聴の魔術機器もその一つであり、ダニエは秘書役の魔術師を懐柔して、厳重に保管されている筈の物を持ち出させ、密かに仕掛けさせていたのである。
更に、常時魔術陣を起動したままの状態にしておく為の魔術機器や、魔術機器と魔術機器を繋ぐ接続器さえ、ゲーナは完成させてきた。それらを連結させてしまえば、過去のゲーナの偉大な功績が、ゲーナ自身を監視する檻となった。
魔力量こそ多いものの、魔術の深淵に挑むことよりも、由緒あるパーヴェル伯爵家の嫡男らしく、地位や権力を望む傾向にあるダニエは、ゲーナにとっては〈小賢しい俗人〉に過ぎず、そうした見解を隠そうともしてこなかった。しかし、その俗人に足を掬われても気付かないゲーナ自身が、千年に一人の天才という虚名に溺れ、己が力量を過信した愚者に他ならないと、ダニエは思っていた。
「魔術陣を常時発動させておく魔術機器は、蓄積させる魔力量を変えて何種類か作られ、実験の後、秘書役の魔術師が破棄する筈でございました。私くしは、その中から最も小さな容量の物を選んで盗聴器と連結させ、魔術師団長の執務室周りに仕掛けたのです。魔力補充の際は、予め認証させた魔術師団長の魔力を、機器が自動的に吸収致します。一度に補充する魔力量が微量なことから、魔術師団長も気付いた素振りはございません」
「いくら小さな物とはいえ、一年以上も魔術陣を起動したままにし続けるとは、相当な負担であろう。成程。ここ最近、テルミンに衰えが見えてきたようにも思えるのは、盗聴の魔術陣に魔力を吸い取られている影響も有るかも知れぬな」
「左様でございます、宰相閣下。一度の量は少なくとも、執務室にいる間、常に魔力を吸収されていれば、流石に回復が追いつかないのでございましょう。御歳ということも、有るのかも知れませんけれども」
自らの派閥の中核を担うパーヴェル伯爵の嫡男、詰まりは自らの手駒ともいえるダニエの報告に、クレメンテ公爵は微笑みを浮かべた。満足の意を示す為に、洗練された所作で軽く両手を挙げると、深紅のジュストコールの袖口を飾る金糸が、魔術機器の一つである水晶灯の光を弾いて鮮やかに煌めいた。
「周到な手配だな、ダニエ。テルミンがアントーシャに何を言うのか、分かり次第伝えよ。全ての事が成ったならば、そなたが叡智の塔の十三階に座することもあろうな」
「光栄至極でございます、公爵閣下」
パーヴェル伯爵は、息子に代わって満面の笑みでクレメンテ公爵に礼を述べ、ダニエも深々と頭を下げた。スヴォーロフ侯爵は銀の呼び鈴を鳴らし、部屋付きの給仕を呼んだ。
「では、幸先の良い船出を祝って、少しばかり乾杯するとしましょう。とっておきの葡萄酒を御出し致しますよ」
謀略の影をするりと拭い去り、彼らは大貴族だけが身に付ける傲慢なる優雅さを以て、暫しの歓談を続けたのだった。